第2話

 
 血塗れ竜の朝は遅い。
 試合は基本的に最終で、王者特権で囚役も免除されているため、昼間にやることが何もないからである。
 故に彼女はよく寝ている。
 寝相は良いのか悪いのか、ベッドから転がり落ちることはない代わりに、布団を蹴飛ばして腕や太股をさらけ出すのは日常茶飯事。
 こうして寝ている姿だけを見ていると、年頃の元気な少女以外の何者でもない。
 寝顔は無垢な天使のよう。血にまみれた闘技場での姿とは一致しにくい。
 幸せそうにすやすやと眠る血塗れ竜。
 起こすのは気の毒かもしれないが、生憎、彼女が二番目に大好きな時間――食事の時間なので起こさないわけにはいかなかった。
 
「白。白、食事の時間ですよ、起きてください」
 
 ちなみに、“白”というのは、血塗れ竜ことホワイト・ラビットに対する僕独自の愛称である。
 彼女の名前を異国風に言い換えたものである。
 本人も嬉しそうなので、普段はこう呼んでいた。
 ただ、何故かは知らないが、僕以外が“白”と呼ぶと、彼女は酷く機嫌を損ねるので、実質“白”と呼ぶのは僕一人だけなのだが。
 まあそれはそれとして。
 声をかけた程度じゃ白が起きてくれないのは、過去の経験からも明らかである。
 よって僕は速やかに第二段階へと移行する。
「白。起きてください。食事が冷めてしまいますよ」
 ゆさゆさゆさ、と肩に手を当てて少女を揺すった。
 むき出しになった二の腕に指先が触れる。
 吸い付くような滑らかさ、とでもいうのだろうか、この世のものとは思えない肌の触り心地に、一瞬陶酔してしまう。
 ……いけないいけない。白を起こさなきゃいけないのに、腕を触って喜ぶなんて変態か僕は。
 
 
 改めて、肩を掴んでゆさゆさと。
 んふう、と心地よさそうな溜息を履いた白は、ごろりと寝返ったかと思うと、そのまま僕の腕を掴んで引っ張った。
 踏ん張って堪えようとしても、こちらの重心移動を的確に把握し、そのまま腕を引き込まれる。
 ぼすん、と少女のベッドの上に倒れ込んだ。
 ……こういう、人の動きを操作するのに長けているところは、流石に王者といったところか。
 ではなくて。
 今日もベッドに引き込まれてしまった。ここのところ毎日である。
 引き込んだ本人は、僕の腕を抱きしめて、更なる惰眠を貪ろうとしている。
 あ、こら、足で挟まないで。手首のあたりに感じてはいけない柔らかさが……。
「んふー……」
 肩にあごを擦りつけてくる。まるで猫だ。馴れきった猫。
 慕われるのは悪い気分ではないが、この体勢は少々不味い。
 白の肌の心地よさは、並みの女性の比ではない。このまま白の柔らかい感触を押しつけられていると、妙な気分になってしまう。
 理性が掻き消される前に、早く白を起こさないと。
「こら、白、起きなさい。朝ご飯は抜きにしますよ?」
 第三段階。耳元で最終勧告。
 コレは流石に効いたのか、微かに首もとを震わせた後、うっすらと白の瞼が開かれた。
 
「んー……ユウキ……?」
 
 寝ぼけまなこで、僕の名前を呟く白。
 表情はとろけきっていて、緊張の欠片もない緩み顔だ。彼女に殺された対戦者は、王者のこんな姿なんて信じられないだろう。
 女子監獄の監視員として配属されてはや三年。
 どうしてここまで懐かれたのかはさっぱり理由がわからないが、これはこれで、悪くなかった。
 
 
 
 
 
 僕の名前は、ユウキ・メイラー。
 帝都に存在する巨大監獄の、東4番棟監視員である。
 主な仕事は囚人の世話。世話といっても、食事を運んだり見回りしたりといった程度の、暇な仕事である。
 しかも女子棟ともなれば、気性の荒い囚人なんて少ない方で、荒事に巻き込まれることもなく、ただ淡々と仕事をこなしていた。
 繰り返しのような監視員の業務。
 一時期は帝国執政官すら目指していたのだが、競争に敗れてからは見事に脱落の坂道を転げ落ち、気付けば監獄勤務である。
 当初のやる気のなさはずば抜けていて、殆ど無気力に仕事をしていたような記憶がある。
 それがいくらかマシになり、仕事にもだいぶ慣れてきたところで――彼女と出会った。
 
 囚人番号E4−274
 囚人闘技場選手登録者。
 囚人名:ホワイト・ラビット。
 
 元々は東3番棟に所属していたが、囚人闘技場に新規登録したとのことで、4番棟に移ってきたのが彼女である。
 4番棟は別段、囚人闘技場の選手のための棟とかそういうわけではない。
 そもそも東の棟は全て女子棟である。闘技場登録者など数えるほどしか存在しない。
 その、数えるほどの登録者同士で、余計な摩擦が起きないよう、一つの棟には一人か二人しか闘技場登録者を在籍させないのだ。
 まあそんなわけで、東4番棟に移ってきたホワイト・ラビットだったが。
 とかく気むずかしい娘で、逆らうことはないのだが、誰とも話そうとしなかった。
 女子棟の監視員には、自分の欲望の赴くままに“戯れる”監視員も数多い。
 しかし、闘技場登録者にちょっかいをかけようとする者は少なく、彼女はだんだんと疎まれるようになった。
 どだい、闘技場に登録される者なんて、面倒事を抱えているのが常である。好きこのんで関わろうとする監視員は皆無である。
 とはいえ、監視員が一人お付きの者として体調管理などを行わなければならないので、誰かが担当せざるをえない状況だった。
 そんなこんなで、多くの監視員の下をたらい回しにされた果てに。
 
 
 ――僕が、ホワイト・ラビットの担当になった。
 
 
 僕が他の監視員と違った点はただ一つ。
 彼女がどんなに無反応であろうが、毎日一生懸命に、手を抜かず彼女の世話をしたということだけである。
 仕事にも慣れてきて、以前のエリートコースにも完全に諦めがついて、
 これしかやることがないのだから、どうせだったら一生懸命やってみようと積極的になり始めた時期だった。
 だから、担当の小娘がどんなに無反応であろうとも、毎日声をかけ、食事の世話をし、時には注意したりもした。
 そして、彼女の初試合、周囲の予想に反して、相手の男を惨殺して、少女が控え室に戻ってきた際。
 全身鮮血にまみれ、湿った足音を響かせて帰ってきた彼女を見て。
 
 とても、寂しそうだったから。
 血液の生臭さをぐっと堪えて。
 濡れた髪を優しく拭きながら。
「頑張ったね」と、褒めていた。
 
 彼女はそこで、“初めて”僕の顔を見て。
 ――うん。
 と、微かに、頷いた。
 
 それから、もう2年が経つ。
 
 
「……でも、これは懐きすぎの気がするんだけどなあ」
 溜息を吐いて、少々重くなった左腕の方を見る。
「♪〜、♪」
 鼻歌を歌いながら、僕の左手を抱きしめて、通路を歩く白の姿。
 どこからどう見ても上機嫌。ただの日課の散歩なのに、どうしてここまで盛り上がれるのか不思議である。
 
 王者になっても、白は全く変わらなかった。
 僕に世話され、頭を撫でられると嬉しそうに微笑んでくる。
 王者の特権として、様々な自由を与えられるにもかかわらず、
 白は、試合の日以外は部屋でごろごろするか僕と散歩するかの二択である。
 囚人闘技場の王者がこれでいいのかなあ、と時折首を傾げてしまうが、本人が嬉しそうなのだから別に問題ないのかもしれない。
 
 
 
 
 
 白があまりにも手のかからない闘技場登録者のため、僕は暇を持て余すことが多々あった。
 何もしないのはどうも苦手なので、白が大人しく寝ているときは、女子棟の業務を手伝うようにしている。
 今もそんな時間で、食事の配給や、空き部屋の掃除などを手伝っていた。
 
「さて。あとは410号室と671号室だけか」
「お、ユウキ。いつも悪いな。本当は俺らがやらなくちゃいけないことなんだが」
「別にいいですよ。どうせ暇なんですし」
「今度、締まりのいい囚人貸してやるよ。媚びも覚えてきたところだから、具合はかなり良いぜ?」
「いえ、そういうのはちょっと……」
 
 空き部屋の掃除は、以外と面倒くさく、やろうとする監視員は皆無のため、僕がこうやってまとめて行うことが多かった。
 今日も既に20以上の空き部屋整理を済ませている。監獄の個室は入れ替わりが激しく、整頓も結構手間がかかる。
 そんな業務を肩代わりする僕に対して、他の監視員の目線は二種類だ。感謝しているものと嘲笑を含んだものである。
 声をかけてくれた人はどうやら前者だったようで、気さくに肩を叩いて、監視員の間ではよくある誘いを持ちかけてくれた。
 それを苦笑いで断って、次の部屋に行こうとしたが――
 
「――ああ、ユウキ。410は空き部屋じゃないぞ。今日から新人が入るみたいだ」
「え? 新人?」
 
 はて、と首を傾げてしまう。
 通常の囚人なら、最初は個室ではなく相部屋に入れられることになる。
 ということは、最初から個室というのは、いわゆる“通常”の囚人ではない、ということだ。
 
密入国者だとよ。しかも、侵入したところが例のサド公爵の領地とのことだ」
「……なるほど」
 
 大陸が帝国の独占支配になって久しいが、それでも帝国民以外の人間は存在する。
 多いのが、他国からの密入国者で、そういった輩は大抵捕縛され、収監される。
 行き先は様々だが、猟奇趣味のある貴族の領地に侵入した場合は、大抵ここ帝都中央監獄に連れてこられる。
 
 ――ここには、囚人闘技場があるからだ。
 
 屈強な戦士だけが戦うわけではない。
 ときには弱々しい人間を無理矢理戦わせて、虐殺される様を見せ物にすることが多々ある。
 そういったものに参加させるために、わざわざ帝都の監獄に入れさせるのだ。
 自分の連れてきた囚人が、見る者を楽しませるショーを展開させたとなれば、上位王族の覚えも良くなる。
 よって、そういった趣味のある者は、殺しても特に心の痛まない人種――異国の民を、ここに連れてくるのである。
 しかも、東棟ということは――
 
「女の子を惨殺、ってことですか」
「だろうなあ。殺される前に楽しんでおきたいが――無理矢理やって、ショーに響かせちまったら、首が飛んじまう」
 やれやれ、と監視員は肩を竦めた。
「ま、そんなわけだから、410号室はもう片づける必要はないぞ」
「はい。わざわざありがとうございます」
「おう。じゃあな――っと、気が向いたら新しい娘を見てみたらどうだ?
 俺もさっき覗いてみたが、これがまた、結構な美人だぜ?
 バラバラにされる前に、生きてる姿を頭ん中に納めとくのも悪くねえぞ」
「はあ」
 
 手を振って、監視員は去っていった。
 それを見送り、僕はこれからの予定を考える。
 ――白の食事の時間までは、まだ当分ありそうだ。
 残りの空き部屋もあとひとつ。その片づけは、後日に回しても問題ないだろう。
 
 特別どうこう思ったわけではない。
 ただ、なんとなく。
 これから殺されることが決まっている少女に。
 
 ――なにか、してあげられることがあれば。そう思って。
 
 僕は、410号室へ向かっていた。
 
 
 
 
 
 
「……××?」
 
 細々しい声が耳に届いた。
 檻の向こうには、一人の少女。
 それは、美少女と呼ぶに相応しい、線の整った見事な造形。
 白もかなり整った顔をしているが、あちらは可愛らしいという表現の方が似合っている。
 それに対して、こちらは幼さと美しさを危ういバランスで保っていて、そこに異国のものらしき異色の瞳が映えている。
 思わず、見とれてしまった。
「……××××、××××?」
 少女が何かを言っている。しかし、異国の言葉のようで、うまく聞き取れない。
 ――いや。
 よく耳を凝らして、発音を一つ一つ丁寧に拾えば、何とか少女の言うことが聞き取れそうな気がした。
 これでも昔は執政官を目指していたのだ。大抵の異国語は身につけている。
 ただ、この少女の言葉は、訛りが強くて、聞き取りにくい。
 訛りの特徴を少しずつ把握し、少女の言葉の意味を探る。
 
 少女は、じっと見つめる僕を訝しげに眺めながら、幾度となく言葉を投げかけてくる。
 ……うん。だいたい、わかってきた。
 やっぱり、海向こうの共通語だ。それがちょっぴり重めの訛り方をしている。
 一度把握すれば後は容易い。少女が何を言っているのか、大体わかるようになってきた。
 
 異国の少女が、溜息を吐いた。
 
「……はあ。やっぱり、通じないか。このまま誰とも話せないのが続くのかなあ」
 そう言って、視線を逸らそうとした少女に。
「いや、通じていますよ」
 そう、声をかけた。
 
「っ!?」
 少女の反応は面白かった。
 まず、びくっと飛び上がり、辺りをきょろきょろ見回した後、恐る恐る僕の方を見る。
 視線をあちこちに移動させながら、時折僕と目を合わせ、ゆっくり少女は口を開いた。
「……私の言ってること、わかるの?」
「はい。わかります」
 そう言って、微笑んでみせた。
 少女はぽかんと僕を見つめ、やがて、恥ずかしそうに、こう言った。
 
「あの……お腹、ペコペコなの。なにか、食べるもの、貰えない、かな?」