第1話

 
 闘技場は、今宵も満員御礼だ。
 怒号や罵声が途切れることはなく、中央で撒き散らされる血飛沫に、誰もが興奮し没入していく。
 今日の対戦も順調に進み、ちょうど、準主戦の決着が付いた。
 砂地の闘場は存分に血を含み、照明の下で妖しい輝きを放っている。
 これで、全ての準備が整った。
 観客の目に、さらなる興奮が入り交じる。
 彼らにとって、今までの試合は“前座”に過ぎない。
 これから始まる戦いのために、観客が集っているといっても過言ではない。
 
 準主戦の敗者――その遺体が運び出され、戦場には一時、誰の姿も見えなくなる。
 奇妙な空白。
 先程まで絶叫を上げていた観客たちも、この瞬間だけは沈黙していた。
 
 そして、司会の声が高らかに響く。
 
『それでは、本日の最終試合。
 血塗れ竜 対 斬鉄巨人 
 を、開始させて頂きます!』
 
 最後の二組の通名が伝えられた瞬間。
 観客全員の口から、喉から、肺から、体全体から。
 今日一番の絶叫が、飛び出した。
 
 う お お お お お お お お お ! ! !
 
 まるで空気が唸るが如く、会場全体が揺れている。
 興奮していない者など一人もおらず、誰もが選手の入場口――その片方へと注視している。
 誰もが、今日の主役を理解していた。
 読み上げられた通名は二つ。されど、皆が期待するのは片割れの惨殺劇のみ。
 果たして、東西に分かれた入場口のうち、西の入り口から人影が現れた。
 
 
『先ずは挑戦者、今まで捻り潰した者は両手に余る、怪力無双の大男!
 ――斬鉄巨人の、レコン・ランクラウドッ!!!』
 
 
 現れたのは、常人の二倍はあろうかという大巨漢だった。
 ただ大きいだけではなく、腕も足も、黒鉄を流し込まれているかの如く、硬く隆起している。
 拳の一撃で、岩どころか城門さえ破壊しそうな大男――その入場に観衆が沸き立った。
 大男――レコンの表情に硬さはない。挑戦する立場であるにもかかわらず、緊張の類はないらしい。
 悠然と闘技場中央に歩んでいった。その風格は、挑戦者というよりは王者そのもの。
 
 レコンは浴びせられる観衆の大声に、手を挙げて応えようとして――ふと、違和感を覚えた。
 
 観衆の声は、自分を応援したり発破をかける類のものでは、ない。
 例えるなら――そう、憐れみ。絶叫のような怒声の殆どは、こう言っているのが聞き取れた。
 
 ――竜を満腹にさせてくれよ!
 ――でないと俺らが喰われちまうからな!
 
 意味が、わからなかった。
 しかし、自分が期待されていないということはよくわかり、レコンは歯を食いしばる。
 
 もう少しの辛抱だ。
 王者をこの手で葬り、自分が新たな王者となる。そうすれば、これからの囚人生活は薔薇色だ。
 囚人同士の殺し合い。その頂点に立つ者はあらゆる罪から解放され、満たされた生活を送ることができる。
 そう信じ、ここまで勝ち進んできた。
 殺した分だけ、確かに生活の質は向上していた。
 味気ないパンとスープは既に過去。今や貴族が食するような最高級の宮廷料理が常食である。
 服も麻から絹へと変わり、囚人の女を好きなように抱ける毎日。
 ――この上に、行けるのだ。
 王者がどれほど強いのかは知らない。しかし、どんなに強かろうと、自分の一撃を喰らって無事な人間など存在しない。
 10日前の試合で、屈強な異国の戦士を一度の拳撃で千切り飛ばしたことを思い返す。
 どんなに鍛え上げられていても、どんなに硬い鎧を身につけていても。
 斬鉄たる己の拳は、必ず敵を引き裂くだろう。
 
 必勝の予感を胸に、レコンは東の入場口を睨み付ける。
 
 ――そして、王者が現れた。
 
 
『今宵も血の薫りを纏わせて、現れるのは最強の竜!
 惨劇が幕を開けようとしている!
 その身が血潮にまみれることを、ここにいる全員が期待していることでしょう!
 ――王者、血塗れ竜こと、ホワイト・ラビットッッッ!!!』
 
 
 今度こそ。
 会場が、沸き立った。
 
 
 王者への挑戦にすら欠片も緊張しなかったレコンが、始めて不安そうな表情を見せる。
 それは観客の異常なまでの興奮――とは一切合切関係なく。
 ただただ、王者の風貌にのみ、戸惑わされていた。
 
 
 現れたのは。
 年端もいかない、可憐な少女。
 
 
 身の丈は、レコンの胸にも届かない。
 手を伸ばしても、首にさえ届かないであろう小柄な体躯に、指で弾いただけでも折れそうな細い手足。
 筋肉も脂肪も、年並みの少女と同じくらいにしか、付いていない。
 
 
 ――こんな小娘が、王者?
 
 
 片腕どころか小指で倒せそうな王者の登場に、レコンは数瞬戸惑った。
 しかし、すぐに気を引き締める。
 相手が誰であろうと関係ない。
 見かけはただの少女でも、王者であるからには一癖も二癖もあるに違いない。
 それに――相手がどんな存在でも、自分の戦法は変わらない。
 拳を握りしめて、叩き付ける。それだけだ。
 どんな人間でも、どんな怪物でも、どんな兵器でも、どんな構造物でさえも、その一撃で事足りる。
 故に、レコンのすべきことは、とにかく駆け寄って、懇親の一撃を叩き込むだけ。
 避けられても風圧で肉を裂き、掠っただけでも衝撃で血液が逆流し、心臓が破裂する。
 レコンの攻撃は全てが一撃必殺である。相手が城より巨大な怪物であろうとも、幼子の如き少女であろうとも、変わらない。
 
 王者が、ゆっくりと、歩み寄ってくる。
 3足離れたところで、王者は止まり、こちらを見据えた。
 
「……っ!?」
 どんな眼光に晒されようとも、怯えない自信がレコンにはあった。
 しかし、少女の眼差しは、眼光といった類のものでは、なかった。
 まるで、路傍の石を見るかのような、感情が欠片も籠もらない、物を見る目でレコンを見ていた。
 吐き気がしそうな熱気の中、こんな目ができるとは。
 震えそうになる体を押さえ。レコンは少女に対峙する。
 
 
 そして、司会の口上がしばし続いた後。
 
 戦闘が、開始された。
 
 
 
 することは単純。
 とにかく、近寄って、一撃を振るう。
 それだけだった。それだけの、はずだった。
 
 なのに。
 
「……へ? ……あれ……?」
 
 レコンの腕が、千切れていた。
 
 肘より先は何処にもない。ねじ切られたかの如く、皮と筋肉が捩れていた。
 間欠泉のように、びゅっびゅっと、鮮血が吹き出している。
 おかしいな、とレコンはぼんやり考える。
 自分は、懇親の一撃を放っていたはずだ。
 赤銅すら紙のように裂く攻撃を、王者の少女に向かって放っていたはず。
 避けられても、もう片方の手で同じことをするつもりだった。
 しかし。
 攻撃は、王者に当たることはなく。
 二撃目を放つ前に、肘から先が消失していた。
 
 噴水のように勢いよく放たれる鮮血に、少女の全身が濡れていく。
 なるほど、とレコンは思った。
 
 
 ――血塗れ竜。
 
 
 この少女ほど、その通名が合う者など存在しないだろう。
 ぼんやりとした頭で、残った左腕で打撃を放つ。
 こちらも、家屋を粉々に吹き飛ばしそうな攻撃だったが。
 
 当たる直前、少女が拳の脇に掌を添えたかと思うと――
 
 ぶつん、と。
 引き千切られた左腕が、舞っていた。
 
 
 左腕も失った。
 両腕はびゅうびゅうと血を吹き出している。
 その朱をシャワーのように浴びながら、血塗れ竜が近づいてくる。
 わけがわからなかった。わかるのは、少女が自分を殺そうとしている、そんな非現実的なことだけだった。
 何をされたのかもよくわからない。
 とにかく、無くなった両腕が、激痛と共に告げていた。
 
“殺される”
 
 とっさに逃げようと、後ろに跳ぼうとしたが、その直前に、ごきんと膝から鈍く重い感触がした。
 え、と下を向いてみると、逆側に曲がった膝と、その上に乗る血塗れ竜。
 そして小さな掌が、レコンの首に伸ばされて。
 
 最後に、視界が天地逆さになってしまった。
 
 観衆の絶叫が、雨のように降り注いでいた。
 
 
 
 
 
 観衆の膨大な歓声を浴びながら、血塗れ竜は会場を後にする。
 べしゃべしゃべしゃ、と。濡れた足が砂地を叩く。
 そのまま無言で控え室へと向かっていく。
 全身に浴びた血を拭おうともせず、床が血に汚れるのを全く構わず、ただまっすぐに通路を歩く。
 そして、通路の先――控え室の入り口にいる一人の青年を目にした瞬間、微かではあるが表情が変わった。
 べしゃべしゃべしゃ、から、べたっべたっべたっ、と足取りを軽くし、青年の胸に飛び込んでいく。
 
「うわっ!? こら、白。急に飛び込むのはやめてください」
「…………」
「ああもう、今日もこんなに血にまみれて……。
 ほら、拭いてあげるからじっとして」
「……ん」
 
 わしゃわしゃわしゃ、と。
 手にした布で、青年が少女の顔を優しく撫でる。
 顔、髪、首、腕、躰、足、と順番に、丁寧に、青年は少女の体を拭いていった。
 その間、少女は言葉を発することなく。
 
 目を細めて、嬉しそうにじっとしていた。
 
 やがて全身を拭き終わり、青年が少女から一歩離れる。
「終わりましたよ」
「ん。今日も、勝った」
「はい。これからもよろしくお願いします、白」
「ん」
 
 少女の顔がほころんだ。
 言うまでもないことかもしれないが。
 血塗れ竜は、世話付きの青年に、恋をしていた。
 
 青年に世話をして貰うためだけに、今日も王者は、相手を殺す。
 それが、この囚人闘技場の、日常だった。